「回転木馬のデッド・ヒート」


次の文章を読んで、後の問に答えよ。

 僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル−そういうものがもしあればということだが−を大きな鍋にいっしょくだに放りこんで原形が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。小説というのは多かれ少なかれそういうものである。リアリティーというのもそういうものである。(a)パン屋のリアリティーはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない
 僕はこのような一連の文章を−仮にスケッチと呼ぶことにしよう−最初のうちは長編にとりかかるためのウォーミング・アップのつもりで書きはじめた。事実をなるべき事実のまま書きとめるという作業は何かしらあとになって役立つことのようにふと思えたからである。だから最初のうち、僕はこれらのスケッチを活字にしようというつもりはまったくなかった。これらは気まぐれに書いては書斎の机の中に放りこんである他の無数の断片的な文章と同じ運命を辿る予定であった。
 しかし三つ四つと書き進んでいるうちに、僕にはそれらの話のひとつひとつがある共通項を有しているように感じられてきた。それらは話してもらいたがっているのである。それは僕にとっては奇妙な体験だった。
 たとえば僕が小説を書くとき、僕は自分のスタイルや小説の展開に沿って、ごく無意識のうちに材料となる断片を選びとっている。しかし僕の小説と僕の現実生活は隅から隅までぴたりと合致しているわけではないから(そんなことを言えば、僕自身と僕の現実生活だってぴたりと合致してはいないのだ)、どうしても僕の中に小説には使いきれない"おり"のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その"おり"のようなものだったのだ。そしてその"おり"は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ちつづけていたのである。
 今のことろ僕にはそんな"おり"をこのような形のスケッチにまとめるしか手はなかった。これが本当に正しい作業であったのかどうかは僕にもよくわからない。本当の小説を書くべきじゃなかったのかと言われれば、僕には肩をすくめるしかない。そして(b)「あらゆる行為は善だ」というある殺人犯の主張を引用するしかない。僕にとってはこのようなマテリアルをこのようなスタイルでまとめあげる以外にとるべき方法はなかったのだ。
 僕がここに収められた文章を<スケッチ>と呼ぶのは、それが小説でもノン・フィクションでもないからである。マテリアルはあくまでも事実であり、ヴィークル(いれもの)はあくまでも小説である。もしそれぞれの話の中に何か奇妙な点や不自然な点があるとしたら、それは事実だからである。読みとおすのにそれほどの我慢が必要なかったとすれば、それは小説だからである。
 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。"おり"とはその無力感のことである。"我々はどこにも行けない"というのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 (c)事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な(A)相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考えている。



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