十二滝町をめぐる検証




<十二滝町の所在−仁宇布と美幸線>


 右翼の大物の出身地であり、羊博士の牧場があり、さらに鼠の別荘があるこの作品の中心である"十二滝町"。最初にこの町の在処を検証することから始めなければならない。
 まず、"十二滝町"という名前の町は北海道はおろか、全国のどこを探しても見つからない。これは村上春樹氏が作り上げた架空の町なのである。しかし、作品中にはこの町に関する非常にリアルな説明や描写が続く。それもそのはずで、実際に村上春樹氏はこの作品を書くにあたって綿密に北海道を取材していたのである。

 まず主人公が十二滝町に向かうルートを略説する。

 「我々は旭川で列車を乗り継ぎ、北に向かって塩狩峠を越えた。九十八年前にアイヌの青年と十八人の貧しい農民たちが辿ったのとほぼ同じ道のりである。」
 現在では廃線になっている路線も含めた北海道の鉄道路線図を右に示す。右図を見れば分かるように、旭川から北に伸びる線は宗谷本線のみであることが分かる。

 さらに"僕"は「小規模の地方都市」で列車を乗り換え、東に進む。線路は川に沿っていることを示す描写が作品中にある。そして「終点である十二滝町の駅」で列車を降りる。この十二滝町に関しては、アイヌの青年率いる最初の移住者が東に進む際に、「山に遮られてこれ以上は前に進めないというところ」と書かれている。要するに沿岸ではなく、内陸であることが分かる。
 宗谷本線から東に伸びる線は、(作品の設定である)1978年においては、図にあるように名寄本線と美幸線(びこうせん)のみである。しかし前者の名寄本線は沿岸まで到達してしまうことから、終点が内陸の山で囲まれた場所であるという作中の記述とは重ならない。これに対して美幸線は終点が仁宇布(ニウプ)という内陸の地であり、十二滝町の条件を満たすのである。故に架空の町"十二滝町"=仁宇布であることが考えられる。

 私はこの仁宇布がある美深(びふか)町の郷土史(タイトルは「美深町史」)をとりよせ、さらに検証をすすめた。これにより多くの補足的な傍証が浮かび上がってきた。

{傍証一}
まずこの本自体が作中に登場する「十二滝町の歴史」に発行年が非常に近い。「十二滝町の歴史」の発行は昭和四十五年と作中に書かれている。これに対して、「美深町史」の発行年は昭和四十六年である。ちなみにこの「美深町史」は何十年かおきに発行されているが、これ以前に発行されたのは1951年、以後に発行されたのは1998年である。

{傍証二}
作中では「十二滝町の歴史」には「現在の十二滝町の主要産業は林業と木材加工である」と書かれているとある。「美深町史」には同じようにこう書かれている。「本町は四囲山にかこまれ、総面積の約9割が森林で、木材の盛衰が町発展を左右するところ頗る多い。」

{傍証三}
"僕"は「十二滝町の歴史」をめくりながら「昭和の始めに大不況と冷害がかさなったんだ」とキキに説明する。これに対して、「美深町史」には昭和5年〜9年について、「過去5カ年のうち、昭和8年(1933)を除き連年災害を受けた農民の生活は、益々苦しさを増した」と記述されている。

{傍証四}
作中では十二滝町の案内板に「大規模稲作北限地」と書かれている。「美深町史」においても「本町は水稲北限地である」と繰り返されている。「この地方の稲作は水稲が主であり、陸稲は極めて少ない」と書かれていることから、実質的には"水稲北限地"="稲作北限地"であると言える。

{傍証五}
十二滝町の駅員が「なにせ全国で三位の赤字線だもんな」と言うシーンがある。「美深町史」にも美幸線の昭和41年度の赤字について「全国一の赤字線にランクされた根北線に次いで全国第3位であった」とある。ちなみに「美深町史」の中で美幸線の全国赤字ランキングについて書かれているのはこの一文のみである。

 以上、「美深町史」に記載されている事項は、この仁宇布が現存する町の中でもっとも十二滝町に近い存在であることを示しているのである。

*さらに仁宇布で唯一の緬羊牧場である松山農場さんのHPでは、札幌からの距離や滝の多さについての考察もなされています。


 この仁宇布という土地の歴史は、良くも悪くも美幸線の歴史に大きく依存している。次にこの美幸線の歴史について紐解いてみることにする。



<美幸線 〜その誕生と発展と衰退〜>

 かつて北海道は鉄道王国と言われていた。しかし、その路線の殆どは赤字線であった。なぜ数多くの赤字路線が存在し続けたのか?答えは簡単である。国が強力にバックアップを図っていたからである。国は日清戦争の経験によって国防上の理由から北海道における鉄道の充実化を目論む。こうして北海道には採算の合わない路線が次々と着工されることになる。
 その波はこの陸の孤島、仁宇布にも訪れる。美深と沿岸の北見枝幸を結ぶ幸線の計画である(仁宇布は初期の計画では通過駅の一つであった)。住民は鉄道敷設の候補地と知るや否や熱烈な敷設促進運動を展開する。どんな辺境であっても(いや辺境だからこそ)鉄道の敷設は地元住民の夢なのである。
 国は綿密な調査を続けた結果、昭和32年に首相官邸で開かれた小委員会において美幸線の着工を決定する。しかしそれは美深〜北見枝幸間のうち美深〜仁宇布区間に限定した着工を先立って行うというものであった(後に、この中途半端な決定が不幸な結果を招くことになる)。
 地元住民は(限定的な着工にわずかばかりの疑問を抱きつつも)町を上げて美幸線の着工を祝った。「美幸線着工を祝う歌」が作られ、旗行列に参加した児童達によって歌われた。そして急ピッチで建設工事が行われていったのである。
 昭和39年、ついに美幸線は部分開通という形で営業が開始される。「出発式」で5両編成の処女列車(ディーゼルカー)は陸上自衛隊の演奏する"鉄道唱歌"に送られて美深駅を出発。列車が滑り出すと同時に日の丸の小旗を持った大人達の歓声の声が響きわたった。その日、観衆は2000人を超えたとも言われている。運輸大臣、国鉄常務理事、衆参両院議員などのお偉方が顔をそろえ、まさにこの町にとっては開村以来の大行事であった。仁宇布には"陸の孤島"という暗い影はなくなったのである。最も華やかかりし時代であった。
 しかし、そもそも採算を度外視して建設された路線である。その結果は言わずもがなである。昭和41年度の営業成績は、営業係数から見ると「869」(100円の収入を得るために869円の費用がかかる)となり、全国で第三位の赤字路線という不名誉な結果に終わる。さらに、冷戦状態の緩和はこの路線に追い打ちをかける。国の支持が得られなくなったのである。ロシアの恐怖から解放された時代に、この路線は国にとっての無用の長物でしかないのである。折しも昭和50年前後においては国鉄の大赤字が盛んにニュースで取り上げられており、この赤字路線はマスメディアの格好の餌食となる。まさに風前の灯火である。営業係数も4000を超え、日本一の赤字路線となってしまい、国側からも廃止路線の第一候補に挙げられてしまう。
 しかし末端で働く人たち及び利用者にとっては、またそれぞれの事情がある。地元住民は全線開通前に評価するのは適当でないとし、無謀にも全線開通のための工事の存続を訴えた。当時の美深町長は「全国一の赤字路線」を逆手に取った必至のPRを展開するが、多少業績が上回るも大きな歴史の流れには当然逆らえるものではなかった。ついに1985(昭和60)年の9月16日に廃線が決定したのである。
 結局開業当初の終点である仁宇布より先に伸び、沿岸に到達することはなかった。これが美幸線の「悲劇の路線」と言われるゆえんである。翌日よりバスによる旅客輸送へと転換されるも採算が取れず、現在では美深町による貸切バスという形態でかろうじて運行している。再び仁宇布は陸の孤島に戻ったのであった。
 2002年現在、この路線跡の保存状態は非常に悪く、仁宇布駅周辺にわずかに残存するのみである(仁宇布駅周辺においては地元住民がイベント用にトロッコを走らせており、観光地としての町の活性化を図っている)。未開通区間では未だに新しいコンクリート橋・トンネル・路盤などが、まるで開通を待つかのように無人の山野を貫いて走るままになっており、近代鉄道建設の矛盾がそのまま遺跡になった感が強い。


結局、線路は仁宇布より先に伸びることはなかった……