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「てぇづぅか――――君おはよう」 自分的には“おっはー”でも何でも良かったかけ声なのだが振り返った彼の無愛想二割り増しの顔に、やらなくて良かったなぁと他人事のように思った。 冬の、寒ささえ増して、時折気まぐれに暖める気候にようやく馴れてきた頃。 夏とは反対に押し潰してくるようにも見える低い空。 朝の寒さに透き通った空気、何処までも透明に見える。肌を刺すような冷気は、あからさまに冬を演出していて綺麗だった。 「……、」 「あ、ちょっとせめて返事はないの返事は?」 つっめたいなぁ等と呟いて、前を歩く男の横へと急いで走る。 不二が隣に追いついたところで彼が漸く『おはよう』と返した。 「…全く、それ言うのに何秒ロスしてるのさ―――――――手塚の寝ぼすけ」 「お前がおかしなかけ声をするから呆れていただけだ。第一、お前こんなに早く来ていたか?」 部活もないのに。 真顔で問い返す、背が高くて仏頂面で、見栄えだけは酷くいい男を見上げて、不二は気がつかれないようにひっそりと息を吐く。 (早く君に会いたかったんですけど―――――――――――なんつったってわからんなこいつは) 諦めモードで胸中で吐き捨ててから、気分を切り替えるようにしてもう一度手塚を見上げ直した。何時までも引きずっていると学校で乾にからかわれかねない。 彼のこういう鈍さは、今に始まったことではないし。 「引退前の癖で早く起きちゃっただけだよ。家にいるのもアレだから学校行って予習でもしてようかなと」 「お互い様だな」 「あれ? 手塚ももしかして?」 「それだけ、ではないが習慣だな」 「…あ、生徒会か。ご苦労様」 でもたまに、乾くらいの鋭さが欲しい――――――――――――と思ったことがないとは言わない。 しかし、そんな手塚も居たら怖い。 「もう引継とか終わったのに。大変だね」 「お前は他人事だな」 「だって他人事だもの。僕は元生徒会役員じゃないし」 ね? と笑って見せたら大仰なため息を吐かれて、その息が大気の寒さの中に白く煙った。 コートを着込んだ、彼は―――――――いつものことだけど学生には見えなくて笑える。 背筋を伸ばして立って歩く、背が高くて格好良くて。空気の透明度が夏の季節よりも強くて、横顔が白く映る。呆れるほど、綺麗で隙のない人。 (本当に) 「まぁ、いいじゃない。推薦取れるんだから受験には被害被らないでしょ?」 「それはそうだが――――――――――――休日ばかり潰れるし。 悪いな」 低い声で変わらぬ流れで吐かれた謝罪の意味を、取り違えるほど不二は馬鹿ではないけれど。意外すぎて、きょとりとする。 曰く、悪いと思ってたのかこいつ。 「…………………………………………………………………別に」 「何だ…、その間は」 「いやだって、君がそんな事言うの……初めてじゃない。付き合って結構経つのに。 その間にも散々放っとかれてヤキモキさせておいてさぁほぉんと君って狡いっていうか」 「…だから、悪かった」 「その一言で片付くと思ってるのが質悪いんだよね。そりゃ、君が好きで忙しくしてるんじゃないとは大方理解しててもさ」 「………………(大方って…)」 「…うん」 「……………、」 一頻り言い終えて、まだ言いたいことが有りそうなのに黙りこくってしまった不二を見下ろして、手塚は冷えた頬に指を這わす。 公道での行為にギョッとする不二の表情に小さく吹き出して、抵抗の少ない身体を引き寄せた。 「……悪かったよ」 寒さで赤くなっているのか判らない顔をして、不二はコートの胸に頬を擦り寄せる。 「だから、――――――――――――――――君ってさ……。 僕は勝てないんだ…」 悔しさより照れの方が強く語尾に現れて、苦笑した手塚の気配が空気を振動させて伝わってくる。 (自分ばっかり惚れ直すのは、割りに合わないんだよ手塚) (―――――――――――――ああ、それでも君が好きで堪らない。) 「『やぁっ! おはよう薫、今日も寒いね!』」 冷えていつも異常に響く声が聞き慣れない程子供向けな音程で降って、それだけならまだ良かったのに目の前にいきなり変な人形まで突き出されて。 思わず叫ぶことも出来ずに固まった海堂を見下ろして、悪ノリしすぎたかなぁと、乾は目の前で手を振ってみる。 冬の灰色の朝の空を背景に、視界を上下する可愛いのだか気色悪いのだか判らない人形に、我に返った側からチョップをかました後輩に、傍らで吹き出した先輩の声が露骨に響く。 手にはめて動かす子供騙しのぬいぐるみだから、チョップを食らって右手も痛いはずなのだがおかしさが最優先らしい。 何を朝から馬鹿かましてるんだこの先輩はというオーラを背負った海堂に向き直って、乾は改めておはようと言った。 「……おはようございます」 「不本意そうに言うなよ海堂。機嫌悪いな」 「誰の所為ですかいきなりそんなもん引っさげて。 大体なんなんスかそれ」 暗に可愛くも何ともないと言っているような海堂の態度に、乾はまた軽く笑う。 わきわきと右手にはめたままのぬいぐるみを動かして。 「『やぁ海堂! ご機嫌斜めだね!』」 「まだやるか!?」 「いやだって面白くて、…冗談だよ。 鳴瀬先輩がおふざけに作ってくれたんでさ、」 ついね、とマンションの隣人を引き合いに出す人に、まだ納得いかないとばかりに睨み付けて、止めていた足を動かす。 乾は引退したからいいが、自分は部活があるのだ。遅刻するのは馬鹿らしい。 大体、なんでこの時間に彼が。 「………部、鳴瀬先輩手芸なんか出来たんスか?」 「というかお兄さんが得意でね。そもそもあの人手は器用だし。誰だと思う?」 訊きたいことは他にあったのだが。手塚の前の部長はとにかくイベント好きのおふざけ好きな人で、そっちの方が気になってつい口が滑った。 乾の“誰だと思う?”の意味が最初掴めずに眉を寄せた海堂は、それがぬいぐるみのモデルだという事に一拍遅れて気付く。 人によっては可愛いと言えるだろうが、どっちかといえばギャグ風味なデフォルメをされたぬいぐるみ。二等身で、変な顔で、眼鏡を。 「……………………………………、」 作ったのが、前々部長…。 大の、悪戯好きでトラブルメーカーも兼ねて、在学中あの手塚ですら玩具にしていた先輩の顔が浮かぶ。同時に嫌な予感も。今先程、自分は思いきりチョップをかましていたが。 「……………まさか」 「Yes。 手塚をモデルにしたぬいぐるみ名付けて『手塚ハイパー』だそうだ。 可愛くないよな」 そういう風に作ったんだろうけど、―――――――――――――等と言っている乾が本当に強者に見えてくる。 よく見れば髪型だの眼鏡だの、眉間の皺とか変なところまで再現しているが。 判っていてああいう声音を付ける辺りが。 「……………まさか手塚先輩に見せるつもりですか?」 「じゃなきゃ持ってこない。と言いたいとこだけど。 見せた瞬間に壊されても嫌だし、とりあえず不二に見せようかなとね」 不二先輩に見せてもどのみち結末は一緒なのではと思ったが、もう言わないでおく。 一年違うだけで、どうしてこう皆。 (一年、違うだけで) 「……そういえば、先輩なんでこの時間に。」 「俺は生徒会だよ」 「…ああ」 そういえば、引継も終わったのにかり出されているとは聞いた。 時折、彼が生徒会役員だと忘れかける。そうさせる彼の態度や雰囲気は馴染んでしまって、嫌いではないけれど。 疲れた、――――――――――――という簡単な弱音さえ、引退する前でも聴いたことがなくて。時々、価値を疑う。 昼休みに、また、生徒会が入り大幅に遅れて昼食を取る。 教室で食べるのも、何故かその日は気が進まなくて、弁当箱を取りに戻ったその足で屋上への階段を登る。 ああこれでまた放課後も集まらなければならないのかと思いながら食べると、自然に味を感じられなくなって、空しい。 部活の引継や誕生日のごたごたや、色々なことにかまけて。 思い返せばろくに不二と過ごしていない。彼が愚痴を零すのも無理ないとは思いながら、同時に八つ当たりめいた感情も浮かぶ。彼は受験のみに集中できているし、自分のように煩わされるものはない。なのに何だか、自分ばかり責められるのは割りに合わない気がして。 「…………手塚部長?」 屋上のドアが開く音に一瞬身構えてしまい、それから顔を覗かせた相手に安堵だか不明な感情を抱いて名を呼ぶ。 「海堂」 片手に弁当箱。自分と同じ目的らしい。 一瞬でも遊びに来た五月蠅い連中かと誤解した事が済まなくて、こちらへ招く。 最近、余裕がない。気がする。 「手塚部長…、いえ先輩も昼一人っスか?」 未だに慣れずに、呼び方に戸惑って問われる。 「生徒会で遅れたからな」 「ああ、そういえば乾先輩も」 「あいつは結局朝の集会に遅刻していたが」 「……スンマセン」 「何故謝る」 訝しげな視線を投げかける手塚には、海堂の頭の中で踊っている『手塚ハイパー』人形がその原因だ等と知りようもない。 自業自得っつーか遊んでるあいつが悪い。との胸中での呟きも然り。 「……いえ、ちょっと朝会ったもんで」 「…ああ、それは別にお前の所為じゃないだろう。 間に合うかの判断も付けていないあいつが悪い」 「……(乾先輩の場合判断付けておいてわざとそれを裏切っている気が…)」 「ところで海堂」 「はい?」 「乾と付き合っているというのは本当か?」 瞬間、奇妙な音を立てて咽せ返った海堂を目にするまで、手塚は自分自身のタイミングの悪さを判っていなかった。 これが不二や乾なら間を読んで問うのだが、手塚にそんな高等技術は期待するだけ間違っているというのが二人の談だ。 何時だったか乾にそんな事を訊かされたとき、『まさか』と端から信じていなかった事を自らが被る形で気付くことになるとは、海堂自身予想だにしていない。 「……いや、気にせず食べてくれ」 今更そんな事を言われてもというのが海堂の意見だが、呼吸を整えるのと質問の内容に白黒する事で忙しいから表情にも出てこない。 御陰で手塚に伝わったのが、タイミングの悪さなのか内容の悪さなのか。 何度も咳き込んで、呼吸を収めて、それから改めて手塚の顔を見遣る海堂に、手塚は普段と変わらぬ表情で視線を返す。 「…………あの、誰にそれ」 「乾だが」 「…………………………………………………………………ッ……!」 (何考えてんだあいつは!) 「本当なのか?」 「……本当ですけど」 どうしてこの人にバラすか等とこの場では叫べず、海堂はこの場にいない先輩を心底どつきたい衝動にただ堪える。 「あの…、それが何か」 「いや、別にこれといった意味はない。悪かったな」 「……いえ」 (…ただ) 『その間にも散々放っとかれてヤキモキさせておいてさ』 自分だって、人を放って苛々させることがある癖に。 俺だけが悪いような、そんな言い方。 『その一言で片付くと思ってるのが質悪いんだよね。そりゃ、君が好きで忙しくしてるんじゃないとは大方理解しててもさ』 片付くと思っている訳じゃない。俺がお前ほど雄弁でない事を誰より知っている癖に。 理解しているというなら、どうしてわざわざ蒸し返す。 (自分だけ、苦しんでいるような態度に苛立って、それが更に罪悪感を募らせる) (側に居たい、だけのはずなのに) 「あ、――――――――――――――――海堂」 昼休み終了五分前。 屋上からの帰り道に呼び止められて、予想通りの声に振り返る。 分厚い眼鏡の奥の瞳は見えなくとも、楽しげに歪められた唇の形。 「…………、」 思わず睨み付けて、それで更に乾の唇が吊り上がるのを苛々して見ている。 階段の段差の所為で、普段より縮まった距離が、逆にもどかしい。 「や。ご飯食べてきたとこ?」 「…そうっスけど。あんたは?」 「俺は次移動教室だから」 その最中。と答える。乾は答えてから、普段より機嫌が悪いなと、高い位置にいる彼の顔を見上げて思った。 彼が自分を睨み付けるのは今に始まったことではないが。 「なら、急いだ方がいいんじゃないですか」 素っ気なく告げて、脇を通り過ぎようとする海堂の腕を掴んで、見上げてくる強い目つきに心臓が一度だけ跳ね上がる。けれど顔には出さずに。 「何、怒ってるの?」 「っ――――――――――――――――判ってんなら訊くな!」 「怒ってる原因が判らないよ」 「嘘付け」 「信用無いなぁ」 「日頃の行いだろ」 「ごもっとも」 海堂の怒り等意に介していないように傍目には見える。 わざとらしく頷いて、『で?』と続きを促す。何時も通りの、馴染んだ問い方。 「……言っただろあんた。手塚部長に」 「手塚は部長じゃないけど――――――――――――――あ、もしかして付き合ってるとかいう事?」 「判ってんじゃねェか!」 「今だよ。…確かに言ったけど、俺達だってあっちの付き合い知ってるんだからおあいこだろ?」 「そーゆー問題じゃねぇよ」 「勝手に言ったのが嫌?」 「…あんたなぁ…ッ」 「海堂」 極めて静かに呼ぶ声に遮られて、あと思った時には抱き締められている。 誰が来るとも判らない場所でそんな事をする、苛立つより先に焦った。 「ちょ…」 「ね、知られるの嫌?」 「此処を何処だと……え?」 「俺とこういう関係なの、知られるの嫌?」 「…………先」 「……―――――――――――――全部の人とは思わないけど。 誰かに『海堂は俺のだ』って知ってて欲しかっただけなんだけど」 『好きだよ。海堂』 何時かのように、耳元で囁かれる声の熱。 空気の振動が直に伝わる。言葉が声になる。 咄嗟に腕を振り払って、感情の整理も付かないままに乾を睨み上げた。 何時だって不意打ちで気まぐれに率直で、――――――――――卑怯なのは彼だ。 「…ごめん。邪魔したね」 表情の読めない眼鏡を外さないまま、平坦な声でそう告げて、乾は登りかけた階段に足を掛けた。 (一年の差が重いというなら、それはお前だけじゃないのに) 「『やぁッ! ブルーなご機嫌だね手塚!』」 屋上から帰る途中の手塚と出会して、朝海堂にやったようにぬいぐるみを見せたら、重苦しい沈黙が返ってきた。 手塚は海堂以上に、冗談が通じない。 「……おーい、なんかリアクション返せよ手塚」 「……、お前は」 照明で光る眼鏡と、目の前で振られる奇妙なぬいぐるみ。 呆れずにいられようかこれが。 「…何をしたいんだ本当に」 「いや、気分を盛り上げようかと」 「お前の場合盛り下げるの間違いだ。ムードメーカーを買って出るな。 そんな風だから…、いや」 「言いかけて止めるなよ」 「気にするな。ソレを仕舞え」 「仕舞えって酷いな。鳴瀬先輩のお手製だぞ?」 「……なんだって?」 「名付けて『手塚ハイパー』だそうだ」 「………――――――――――――――――あの人は…」 似ているのだか不明なぬいぐるみから視線を外して大仰なため息を吐く。 作る先輩も先輩だが。持ってくる乾も乾だ。 大体なんだハイパーって。 「海堂が?」 「…は?」 「さっき、海堂に会ったんだけど。 もしかして『付き合ってる』話題話したの? 手塚が」 「……お前、」 本当に彼の場合壁に耳でもあるんじゃないのかと思いたくなって、それからやはり呆れてしまう。結果が予測できるのにどうして。 乾はむしろ手塚が話した事が意外な様子で見下ろしてくる。 本当に判らない。場の空気を読むとか、そういう自分に出来ないことをあっさりとやってのける。 「…………何でもない」 「何でも、って手塚。何だよ…」 羨ましいとは思わない。 けれど彼のそんな鋭さはやはり、不二を連想させる。 「…いや、あまり海堂を困らせるな」 さりげなく言ったつもりで。 通り過ぎ様に乾に言い返された。 「手塚こそ」 ざらりと手の裏で砂が鳴った。 一瞬、びくりと緊張した身体はすぐに弛緩する。 刹那的な恐怖に一度は凍った指が動いて、地面の乾いた砂を何度もなぞった。 「不二! 大丈夫か!?」 騒々しい声が上空から降った。菊丸だ。他のクラスメートの声も混ざっている。 グランドに座り込んだままの不二の前に立って、心配そうに見下ろしてくる双眸に向けて、大丈夫だよと笑った。菊丸の後方に、遮られた青い空が浮かんでいる。雲の足が速い。 「吃驚したよ…お前いきなり転けんだもん」 視線を合わせるようにしゃがみ込んだ彼に、軽い謝罪を述べて投げ出したままだった両足に力を込めた。ジャージが砂で汚れてしまっている。靴紐が片方解けて、同じように砂にまみれている。ああ、これかと思った。 ボールが彼方に転がっている。サッカーの試合の最中だった。パスを受けた矢先に不二は転んだのだ。原因は何とも間抜けで在り来たりだった。 立ち上がって汚れを叩く。すると菊丸が“げっ”と声を上げた。 不二のジャージが、叩かれて砂を落とされた側から赤い血に汚れていく。 痛みがなかったので気付かなかったが、くるりと改めて自身の手の平を見てみれば、皮がべろりと剥けて血塗れになっていた。 「…うっ……わ……………。お前、痛くないの?」 「痛みがあったらコレで服叩かないと思うなぁ…」 妙に現実感もなく、手の平の生臭い赤を見つめているとクラスメートに呆れられた。 「お前等呑気に話してないで保健室行けよ…」 やっぱり、気持ち悪い物は気持ち悪いらしい。まぁ視覚には悪い。雑菌は入りまくりだから早く消毒するべきなのは事実だ。体育の教師も皆まで言わずとも判ったらしい。 行って来いと指を示した。 保健室で治療を受けたら、何だか大げさに包帯を巻かれた。 一日限りでも、何だか大げさで。けれど大人しく廊下へと出た。 保健室の消毒液の匂いにまみれた世界から抜け出して、無意識に呼吸が大きくなった。 嫌いではない。静けさはこの廊下と同じ。ただ、非現実のような感覚があの教室には付きまとう。静寂と、麻痺。二つの印象。 ひたりと廊下に踏み出した靴音は、意識している所為もあってかあまり響かない。 午後の、薄暗い廊下と場違いなほど明るい窓の外の日差しは、幻聴のような生徒達の笑い声を纏う。綺麗な、冬。 肌寒く、けれど太陽の日差しは澄んで輝く。木々の色はない。 綺麗だな。けれど寂しい。もうすぐ春だ。別れの季節だ。 靴音が、する。 自分以外の音に薄っぺらい静寂も崩されて、振り返る。 何してるんだ、とか。そんな問いよりも先に、不二の手の包帯に気付いて少し笑むだけに留めた同級生が、傍らを指さした。 隣、いい? 「…どーぞ」 視線を直ぐに窓に返して、投げやりに言った。 笑う気配と、近づく気配。 「君、授業いいの?」 怪我じゃないじゃない。言ったら、乾は苦笑するだけで答えずに。 窓枠にその腕を掛けた。 「戻らないんだ?」 不二が問おうとした言葉を、乾が先に口にする。 “言ったってどうせ見学だよ”――――――――――――――訊いた癖、そう返ってくる事もちゃんと判っているのに。 「俺は自主休講ー」 「サボりじゃん」 「違いないけどね。いいよ。一時間くらいなら」 「万年首席男…」 「不二…、それ悪口違う」 しんと、したままの保健室。開かない扉。音のない廊下。 校舎の、裏側のような印象。小学校では、保健室は校舎の奥の方にあって。 保健室の側の廊下からの光景は、校舎の影になった裏庭。ひっそりとした世界。 陽の当たらない場所。同じだなぁと、意味もなく思い出す。 気まぐれな風。 徐に窓を開けた不二が、思いの外強い風を受けてただ眼を閉じた。 風は、乾にとってはただ頬をなぜる程度の強さしか感じられなくて。 ただ、少し、溜まっているのかなと思った。 同じかな、と思った。 風で散らされる淡い髪を、一束掴んでみた。不二は一瞬、瞳を開いただけで、また伏せる。拒むつもりも無さそうだ。 窓の外は、影の世界。塀の向こうは、眩い太陽の光が見える。 薄暗いから、静寂さは増す。 風に煽られる髪。露わになる肌の白さに、覗く幼さ。 だけど、可愛いんじゃなくて綺麗。 自分より余程小さな彼だけど、可愛いと思った事なんてあんまりない。 姿と裏腹な彼の本性。見抜いてしまえば、あとは不二は遠慮なんてしないから。 少なくとも、自分とか、手塚とか。には。 「……、」 少し、考える。乾の手が窓枠を掴んで、爪がキッと嫌な音を立てて引っ掻く。 例えば。 海堂、どの辺まで俺の本性判ってるのかなとか。 性格の悪さや狡猾さを、見抜かれたとしても―――――――――遠慮するんだろうなとか。 本性そのままじゃ動けない自分の狡さ。先輩というちっぽけなプライド。 視界と思考とを切り離していたら、急にひやりとした感触に掴まれて我に返る。 不二の髪を掴んだままだった自分の手の上に、重ねられた包帯の手。 冷たい。 交差する視線。 包帯から出た、指先の白さ。 重ねられた手を掴み返して、その指先に口付けるようにして軽く銜えた。 拒まずに、次の行動を待っている不二と、何時までも視線は離れなくて。 すぐに手を離した。 「…海堂に、やればいいのに」 「…殴られるよ」 ぽつりと、あんまりにも小さく吐かれた言葉だったから。思わず笑ってそう返した。 事実だろうな。多分凄く怒られる。 「……さくら」 「は?」 桜? 「…冬だぞ」 「うん。知ってる」 ついと、今度は不二から伸ばされた手。 乾の、肘の部分の袖を子供みたいな仕草で掴んで。頬を寄せる。 「……もうすぐ、春だから」 終わっちゃうでしょ。色々。 そう、服に押しつけた唇で紡ぐ。肘の部分がくすぐったい。 「手塚に言いなよ、そういう…」 (弱気なのは) 言葉にしかけて、出来なかった。 吐けないのは、自分も同じだなと知るから。 くぐもった声で、キスしようかと不二が言った。 冗談じゃない、と答えたら、冗談だよと言われた。 「…海堂に睨まれてしまう」 「俺なんか手塚に殺される」 左手の肘に、しがみついたままの不二の重み。そのままくすくすと笑う声が振動になって乾に伝わる。服が皺になっていく。引き剥がさない。 「………言えないじゃん。また困らせちゃう」 「自覚有った?」 「有るよ。手塚のこと判ってるって自惚れてるから僕。 …一緒にいられないって、愚痴るとね。すごい困ってる」 「うん」 「こうやって抱きついたら…困るんじゃないかなって」 「…うん」 「…苛々させたくないんだけどね」 「……」 きゅ、と籠もる指の力。 子供みたいな、掴み方。 唇、腕に寄せて。気配で笑う。 「…難しいね」 冷えていた指先が、同じように暖かくなって。 痛いなぁ。 このまま、行ったら。だんだん、離れて、だんだん、冷めて。 終わっちゃうんじゃないかな、と。 考えたら、胸の底が冷えたけれど。 冷えて縮こまったように身体は動かないから、意識から視線を逸らすように空を見た。 「…そういえば、何時だっけ」 「…え?」 なに、と言いながら腕から手を離さずに、少しだけ見上げてくる不二の眼には、乾がただ窓の外を見ている姿しか見えなくて。 「……子供の頃かな」 「今も子供じゃん…」 「すぐに大人だよ」 思いついたことを、口にしているように見えた。 「……母親の実家に、硝子で作った桜の置物があって。透明なヤツが」 「綺麗だったの?」 「…多分。何せガキだったし興味もなかったからよく覚えてない。 聞いたら、知り合いが作ったものだって。形はあんまり覚えてないんだけど、祖父の言葉は覚えてる」 「本物のように、散ったりはしないけど。 割れる時は一瞬だって。 壊れない限り永遠だけど、壊れたらもう絶対咲かないから」 生物じゃないしね。 「綺麗かどうか、印象に残ったかなんて覚えちゃいないけど。 言葉の意味なら子供ながらに何となくは判った。 止まった時間に価値はないんじゃないかって、単純な話」 「―――――――――――――思い切って振られてこいって?」 「…違うよ。 出し惜しみするなって、手塚に」 「何ソレ…」 わけわかんないなぁ。ぶらりと、腕に体重を掛けられてもあまり苦ではないけど。遠くでチャイムが鳴って。 「……完全サボりだな」 「うん、終わっちゃったね」 戻らないのか、と言いたげな視線。 もう少し、と答えれば乾は好きにさせてくれる。 左腕のこの温もりが、どうして手塚の物じゃないのかと思いながらしがみつくのは、何処か背徳で。けれどそう出来るのは、彼にも特別が居るからだ。 暖かくても、冷たくても、痛くてもいいから。 本当なら、抱き締めて欲しい。 どんなに、待たされても良いから。抱き締めて欲しいよ。―――――――手塚。 それだけでいいんだ。…困らせたい、わけじゃなかった。 「…不二?」 ずるずると、しゃがみ込む不二を訝かしんでくる乾の声。 立つ気がなくなって、床にへたりと座り込んだ不二の額に指を這わせて、熱でもあるのかと訊く。 暖かい彼の手と、冷たい自分の額。 心地よさに眼を閉じて。 凄い音がした。 「……………………………………………ッ…………!!!!!!?」 反射的に開けた視界で、見えるのは後頭部を両手で押さえて呻く乾。 その背後。 「……………」 手塚と、海堂、君。 授業は? ああそうだチャイムなったんだっけ。 とか呆けた思考で思って、ころころと廊下を転がる缶に目を留めて、拾い上げればずっしりと重い。 「…………うわ…凶器」 痛いよ。下手したら脳震盪だろ。コレ。 「………ッ……手塚…お前な。 …中身入ったまま投げるなって言っただろ…ッ」 「俺じゃない。買ったのは俺だが投げたのは海堂だ」 「…海堂…、君ね」 先輩を何だと思ってるかな、などとしゃがみ込んだままで言っている乾が実は涙目になっていることは、横顔が見える不二しか判らない。 「…頭へこんでない?」 「へこまないよ」 場違いな不二の質問にもしっかりと返しておいて、じんじんと痛む頭を押さえたまま、乾は二人を見上げながら“アイスノンが欲しい”とか真剣に思う。ああ保健室が間近にあるのに。 「てめ…ッ、なに授業サボってんだよ」 「自主休講だよ」 不二と同じ事言うなあ。 しかしこんな所にしゃがんだままなのも、どうかと思う。 人が来たら困るだろう。いくら教室から外れていたって。 同じようにへたり込んだままの不二と視線があって、仕方ないなと心底思った。 「不二」 「…へ? ……っぇ…」 唇で、触れるだけの額へのキス。 後ろに何か言われる前に、多少なりとも驚いている不二の頭を軽く叩いて。 「じゃ、あとは頼んだ」 言い置いて。 「…はい?」 乾は駆け出した。 「っつーことで俺は教室戻るから!」 「え!? なにが“つーことで”!? ずるっ…!」 置いてくな、的に伸ばした手の先の廊下を、追って駆けていく海堂の背を見送って。 「…廊下は、走っちゃいけません――――――――――――――――…」 思わず口を吐いて出た言葉は、如何にも情けない。 先程までの静寂ムードは何処行ったんだろう。こうなると保健室の錯覚的な雰囲気も窓の外の薄暗さも意味がない。 やっぱり、印象的な物なのだ。感情と印象と錯覚の振り幅。 有りとあらゆる視点で捉えられた、固定のない空間。 急に腕を掴まれた。痛いと思った。立たされはしなかった。手塚はただ左手を掴んだだけ。 勢いで彼の方を振り返って。 呼吸が止まる。 視界が、黒くなる。 きつく、――――――――――――自分を抱き締める、強い腕。 しがみつこうとしていた、左の腕が目の前にあって、抱き締められたままで思わず手を伸ばした。 先程乾にしたように、掴んで。振り解く気なら簡単に振り解ける子供の力で持って。 離れないでと思った。 我が儘を言わないから。もう言わないから。 ずっと抱き締めて。 「何時まで笑ってんだアンタは!」 「い、痛い海堂頭痛い本気で!」 風が渡る。 空の下の高い四角。 揺れる、屋上の扉。 「…絶対コブ出来てるよこれ」 「自業自得だろ」 「酷い」 「誰がだ」 「海堂だろ?」 真顔で言ったらまた殴られた。 大仰なため息を吐いて、フェンスに寄りかかって。きしりと、軋む。 「また…」 笑うと、彼は怒るけれど。 先程のアレは、詰まるところ嫉妬されたということで(でなきゃ海堂があんなことするか)。 どう考えても、頭が痛い事を引いたって嬉しいのは仕方ない。 「海堂」 「…あ?」 「…ごめんね」 やっぱり、弱音はずっと吐けないままだろう。 先輩と後輩という、ポジションが崩れない限り、俺は一歩下がって立っているのだろう。 だけど好きだから。 「っ…寄りかかるな! またサボる気かよあんた!」 「付き合ってよ」 「嫌だ!」 それだけじゃ、駄目だろうか。 それだけじゃ、駄目なのかな。 せめて、せめて。 (眼を伏せて願う) 「…ごめん」 桜が咲くまで。 |
18800hitを踏まれた比宮奈々様からのリクエスト
[塚不二、海乾前提で乾不二っぽい二人に手塚、海堂が嫉妬する]
ちょっと、長編一歩手前で危なかったです……。
初の海乾リクに凄い舞い上がっていたのは覚えていますが、その割に海乾というより乾海…(汗)
す…ッ…すいません! 心は! 心は海乾なんです!
がはっ…(倒)
相手に対するちょっとした苛立ちとかマイナス感情とか、大抵現実では言わずに押し殺して
相手の行動に一喜一憂しているうちにどうでもよくなったりまた浮上したりみたいな事を書こうとしたはず、なんです。
尻切れトンボっぽくなった言い訳、かもしれません…(汗)
とりあえず…ラブラブで。そして中身入り缶の犠牲者第二号乾さん(一号は忍足)。
実際、恐ろしく痛いです。中身入りは。アルミだと間違いなくへこみます。
しばらくはクラクラします。一応、気絶したことはありませんが(食らったのも一度きりですが)。
…真似はしちゃいけません(しないって)
比宮様、御申告有り難う御座いました! 捧げます…!(そして脱兎)
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