‖blind summer fish//盲目の夏魚‖ (過ぎていく時間に意味など付けようもなく。………自覚するには乏しい。――――――ただ、切欠が欲しいんだよ、と)










◆4/1のプログラム◆





 とにかく走る。
 自分にしては珍しいほどだった。
 朝の輝かしい、春の澄んだ空気も、ラッシュに賑わう街も、晴れた空に彩られた街路樹も全く目に入らない。
 とにかく視界全ては直線だけで、他は高速で過ぎるオブジェに過ぎず。
 ただ一目散にコンクリートを蹴り、走る。
 時刻は8:26。
 はっきり言って、―――――――――――――――遅刻寸前、である。

(…やばい)
 確か今日は校門に生活指導の先生が張っていたはずだ。
 捕まったら門は閉められる。生徒手帳は見られるし、目を付けられる。
 他の教師ならまだしも、あの先生だけは勘弁願いたい。
 乾ですら心底そう思うのだ。他の生徒のみならず教職員に嫌われ者の生活指導の先生は、質が悪い事にそれに全く気付いてない。
 ので、目を付けられたら卒業するまで終身刑。―――――――高等部にも顔を出す先生なので、更にヤバイ。
 目を付けられたらヤバイ、等とぼやいたり、
 目を付けられて地球最後の時のように頭を抱える同級生なら見てきたが、
 それが自分自身に降りかかるとは全く危惧していなかった乾だ。
 何せ、小学校時代から遅刻には無縁の人間なのだ。
 待ち合わせの時間には十分は早く行く。中学に入ってからは運動部の為朝練で、教師が張ってもいない時間から悠々と門を潜る。
 遅刻の常習犯を見ては、『学習能力がない』と宣う事多々。
 そんな自分が遅刻しようものなら馬鹿にされそうなのだが、それはもういい。
 目を付けられることに比べたら。
 ああもう朝練もしっかりサボってしまったのだがそれもいい。どうせ放課後校庭30週くらいのものだ。
 とりあえず走る。普段部活で趣味なんじゃないかと思われるほど走らされていたので息が切れることはない。
 手元の時計が残り2分を切った時、眼前に校門が見えて、走りながらも安堵する。
 門を通りすぎてから、生活指導の教師にひとまず挨拶をすると。
「なんだ、乾。珍しいなお前がこんなにゆっくり来るなんて」
 と笑って言われた。(生徒会なので嫌でも顔を覚えられる)

 流石にコートには誰もいない。
 一時間目は自習だったので乾はそれほど慌てずに昇降口へと向かう。
 踵をずらして靴を脱ごうとしながら、はたとそこでようやく視線があった。
 下駄箱の群の向こう。おそらく部室で時間を潰してしまったのだろう。
 気難しい顔をした手塚と大石と、大口を開けて乾を指さす菊丸達と。
 それに気を取られたわけではない。
 ただ運が悪かったのは、朝急いで家を出た為に紐靴だった靴の紐が片方緩み初めていたことで。
 更に何とか間に合った事に安堵してか、気が緩んでいたこと。
 片方の靴が緩んだ靴の紐を踏み、廊下との段差を一瞬失念し、視界がぐらりと揺れる。
『あ』と思ったときには遅く、乾は俯せの体勢で廊下に倒れ込んだ。
 サボリの理由を問いつめようとした手塚も流石に目の前で派手に転ばれて―――――しかも乾が―――――そのまま話は続けられない。

「…ちょ…ッ…乾!? 大丈夫?」
 不二の声に重なって、大石や菊丸の声が鼓膜に響く。
 咄嗟に手を顔の前で構えた御陰で、顔面衝突とはならなかったが眼鏡は衝撃でどっかに飛ぶし、段差で打ち付けた膝が痛い。
 ついでにえらい恥だ。
「…………大丈夫、だけど」
 何とか上体を起こし、駆け寄ってきた四人の言葉に答える。
「乾」
「あ、なに手塚。部活のことなら…」
「眼鏡、壊れてるぞ」
「――――――――――――――――………………うわ」
 どうやら、転んだ拍子に吹っ飛んだ眼鏡は廊下の端まで行ったらしい。
 それはともかく今日一日どうするんだろう自分とは自答出来ず、内心頭を抱えてみる。
(………もしかして、今日俺厄日…?)





 朝、物を捜していたらこうなった。
 というのが一番分かり易い説明なのだ。
 なくしたものが、眼鏡だったりしたりしたから、ろくに物も見えない状態で部屋を彷徨く羽目になり、
 ダイニングの真下に落ちていたことに危うく踏み掛けて気付き、時計を見たらその時点で既にやばかった。



「………ツイてない」
 こんな厄日は俺向きじゃないだろうと、そんな事を思考のどっかで考える。
 部室の窓に遮られて、傾くように差し込んでくる日差し。
 予備が、そういえば部室に置きっぱなしだった事を思い出したのだ。
 今までの感覚と勘で何とか此処まで来たモノの、それからに迷った。ロッカーの位置は、多分判る。
 でもそのあとは、見えない。
 乾の視力は小数点を切っている。一人でモノ探しというのはキツイ。がわざわざ教室へ行ってクラスメートに頼むのも大変だ。
 あの場であった手塚達に頼めばいいという意見もあるが、彼らには授業がある。乾の組がたまたま自習なだけで。
 とりあえず簡潔に遅刻の理由を説明したとはいえ、部活サボりのレギュラーが『授業サボって手伝ってくれ』とは言えない。
 乾はそこまで自分勝手ではない。
「……………」
 不意に乾いた笑いが浮かぶ。もしかしたら、ロッカーの位置見つけるのも難しいんじゃ。
 感覚で判るとは思ったが。
 ちょっと、途方に暮れてみる。意味がないので直ぐに止める。
 さて、と。馬鹿なことやってないで早く探そうと。乾が手の動きを再会させたとき、背後の位置にあるはずの扉が開く音がした。
 誰か教師でも来たのかと、見えない分普段よりは露骨に(それでも乾だから菊丸達よりは余程冷静に)反応して、見えないのに振り返る。
 相手の姿はぼんやりとしか判らない。そこにいるというそれだけ。
 少し、沈黙が返る。
 そして、小さく笑う気配とその声。
「……不二、か?」
 男にしては高い声と、その吐息で笑うような密やかな音。
 ふ、と肯定するような笑い混じりの息が返る。
「…吃驚した。すごい驚いた反応するんだもの」
 正解らしい。その言葉に小さく息をついて、脅かすなよと言う。
「脅かしたつもりないよ。折角手伝ってあげようと思ったのにさ」
「手伝いに? お前授業は?」
「え? 先生が遅刻。事故があって渋滞に巻き込まれたんだってさ」
「へぇそりゃ災難」
 言いながら乾は憶測で、自分のだと思われるロッカーを開ける。
 気配で側に来たと判る不二がなにも言わないので間違ってはいないらしい。
「予備?」
「うん。置いておいたはずなんだけど」
「ふーん…。…あ」
 ふと彼が声を上げた。ちょっとごめんと言って、不二がロッカーの中に手を伸ばす。
 見つけたのだろう。だがその拍子に軽く触れた身体と柔らかい髪から香る匂いが鼻孔をくすぐる。
 視覚で見ていない分それはダイレクトで、乾は思わず息を詰めた。
「あ、あった」
 不二はそんなことなど気づいてない。
 予備を見つけたらしく、ケースに入ったソレを取り出してはいと乾に手渡した。
 乾もそれほど驚きとか、そういうものを長引かせる質ではないから普通の態度でソレを受け取った。
 でも、さっきのは少し驚いたかも。
 渡されたソレを掛けると、ようやく視界が落ち着いた。
 その中で、同じように落ち着いた風で微笑む顔が映る。
「やっぱり乾眼鏡ないとねぇ」
 調子狂うよなぁ。
「俺も調子狂うよ。視力とか関係なしに。もう一部だね。
 耳とか鼻の上に眼鏡の蔓とかないと変な感じなんだ」
「とか言ってかけ始めた頃は変な感じだっただろ」
「まぁね。そんなもんだろ」
 がたん、と少し強く押してロッカーを閉める。
 そういえば不二の言うところの遅刻した教師は何時頃着くのだろうか。
 間に合いそうなら長居はまずいんじゃないのか。
 そう訊こうとして、けれど止めた。正確には訊けなかった。
 それというのも不二が、壁際にあったベンチにどかりと腰掛けて眠たそうに欠伸をしたからだ。
「……授業は?」
「ん? んー……いいや。どうせ間に合わないし。二時間目古典だし…」
 言いながら二回ほど大きく口を開けて欠伸をする。
 目を擦りながら。
「じつふぁ(実は)昨日さぁ裕太が帰ってきてて…朝方までゲームやってたんだよねぇ」
「ゲーム?」
「うん…自分が勝たなきゃ気がふ(す)まないらしくて…」
「成る程ね。そんなんでよく朝練出たよ」
「朝練時は眠くなかったんだけど…」
 眠気からか普段より不明瞭になる言葉に小さく苦笑して、一度だけ校庭を見やってから、乾も不二の隣に腰を下ろした。
「…乾?」
「手伝ってくれたお礼に付き合うよ。一時間目終わったら起こしてやる」
「…ん。ありがと」
 瞼がゆっくりと降りて、それからかすかな声が礼をつづる。
 また苦笑して、かちかちと鳴る時計の音をしばらく追った。
 やがて、隣から寝息が聞こえてくる。
 見れば不二の首がゆらゆらと揺れていて、軽く肩が触れるとその衝撃で不二の身体が乾に寄りかかった。
 それでも起きずに眠っている。
「……………、棚ぼたラッキー…ってこういうのかね」
 ふ、と先ほど感じた髪の香りが流れてきた。柔らかい髪が首筋に触れてくすぐったい。
 自分より幼い寝顔と暖かな布越しの体温。
 もしかしてここへは眠りに来たんだろうか。静けさを求めて。
 それは憶測。本当に手伝いに来てくれたか、も憶測。
 息をついた。思わずといった呼吸だった。誰も聴くモノがいないから零れた呼吸だった。
 時間が経つのが、酷くゆっくりに感じるのに。時計は早々と走っていく。
 窓の外の素知らぬ雲の流れ。青くて、けれどきっと本物の青さではない空。
 窓から落ちた日差しは、四角く切り取られて机や無人のロッカーを照らし、自分たちの靴元をも照らす。
 白と橙が混ざったような、金色のような陽光だ。
 今は春で、温度は低く涼しい。日が当たる場所は暖かい。風が窓を鳴らす。
 傍らで、不二が少し身動いだ。さらりと髪の毛が肩口に掛かる。淡い色のソレ。
 窓からの日差しが、彼の左の耳から首筋へ落ちていて、うなじが白く見えている。
 一本一本髪を梳くようで、輝いて見える。
 暖かくて自分まで眠くなって、けれどそれは勿体なくて。
 思わずといった風に伸ばした手が不二の首の後ろを通って左側の髪に触れた。
 柔らかい感触と柔らかい色。目覚めないよう思いながら見下ろして、呟く。

 好きだよ。

 自分の耳にやっと届くほどだったから、眠りを越えてまで彼へは届かないと思って腕を離す。
 けれどその直後に不二の眼が開いて自分からバッと離れたから本当に驚いた。
 不二も驚いているようだった。聞こえていたのか。
「……………狸寝入り?」
 言うべきはソレではないが、つい口に出る。
 不二が乾を見返したままで、ちょっと前に目が覚めたんだけどと答える。
 もしかしたらあの身動いだときに起きたのかもしれない。
 不二のその頬や額を陽光が晒していて眩しい。
「…いまの」
「………聞こえたか」
「うん…」
 吃驚したと、言外に言う。そりゃあそうだろう。
 そして不二は聴かなかった振りなどしてくれないから開き直るしかない。
 座り直して、不二にちゃんと向き直って言う。
「……ん、で?」
「…で? って?」
「だから……――――――好きなんだけどさ」
 窓側の右の肩の、白いシャツが日の下できっと暖まっている。
 彼の顔は相変わらず陽光で眩しいが、心なしか赤くなっている気がする。
「……好きって、あの」
「言っておくけど手塚とか菊丸とか友達とかに対する好きじゃないから」
「そりゃ判るけど」
 思わず突っ込んで、しかしすぐに乾と視線を合わせて息を吸うのが開いた口から判った。
 けれど不二はまた言葉を飲み込んで閉じ、それから視線を部室の中で一周させて、それから乾に戻した。
 乾にしてみればそんなことされたら不安なのだが、不二はそうは思わないらしい。
 唇を湿らせて、それからやっと声にした。




 ただ、切欠が欲しいんだよ、と。




 校門の側で、今が絶頂だというように咲く桜の渦。
 淡い色の花弁の風。遠い昔にも昨日のことにも感じる。
 ここへ来た日に、迎えるように咲いていた桜。
 明日には新入生が登校してくるだろう。いつかの自分たちを思い出せば、それは随分懐かしい。
 風の波に飛ばされる。吹雪のような桜。
 流されて何処かへ落ち、踏みつけられて汚れていくだろう花弁。
 ただ儚く鮮やかで、美しいばかりの色彩。
 生命を繋げるなら木々。離されて千切れていったそれを綺麗だと感じるのは舞い上がった瞬間で。
 地に落ちた後、それに何の意味があるだろう。
 掃除が面倒だと、何時だったか卒業した先輩が言った。
 ずっと、感慨深くなんか見ていられないと。
 まるで卒業と入学と、その証のようで。咲かなければいいとは、思わないけど、と。
 そんな事しか感じられない自分は子供だろうか。それとも子供ではもう無いのだろうか。
 綺麗だと、感動する同級生達の一歩後ろで、冷めたように見上げる。
 ただ綺麗なだけならいっそ、魔物が住んでいると、そんな禍々しいモノの方がいい。
 死体が埋まっているからと、そっちの方がいい。
 気づけば無感動な表情でそんなことを考えていて、同じように校庭を掃除していた同級生に怖いと言われる。
 そうかな。いいと思う。誰かの命で咲いているんだと考えるのは、背筋に何かが走るように綺麗だと思えて。
 手塚に訊いても訝られるだろう。菊丸なら怖がられる。不二なら?
(不二なら………?)
 さわと、緩く吹く風に揺らぐ一面の桜。
 此処が漆黒の夜の中なら、さらわれそうなほどにその世界に酔えた。
 鼓膜を打つ自然の声。人の声を遮るような色彩の乱舞。
 世界中それだと、錯覚できそうなその圧倒的さ。



「切欠が欲しいんだ」と不二は言った。

 告白の返事には無粋で、意味が判らない。



(何の切欠を欲するというんだろう)



 箒で散った桜を掃いていた同級生が、同じ班の女子に悪ふざけのように話をする。
 足下で、もう汚らしそうに千切れている脆弱な花弁。踏みつけられて、割れた部分が変色している。
 この桜の木には実際に人が埋められていて、と。この学校の生徒だったんだと。
 卒業間際に、卒業が嫌でずっとこの場所にいたくて自殺をした人だと。
 何処まで本当だか分からない話をする。
 けれど、実際にそんな動機で自殺した人がいたという話を聴いた事があったような。
 気がして。
 俺も聴いたことがある、と言ったらそれで信憑性が一気にあがったらしい。
 女子が揃って悲鳴を上げる。
 言い出しっぺの男子が笑い出す。嘘だと言った。
「エイプリールフールだぞ今日」
 おかしそうに言われて、女子達もようやくからかわれた事に気がついたらしい。
 目をつり上げてこちらを睨んでくる。それはまだ可愛い範疇の表情で。
「でも乾まで協力してくれるとは。助かった」
「いや、さっきの話は本当に聴いたことあったんだけどね」
 真顔で言えば軽く退かれた。
 同時に、そういえばそうだったと。
 エイプリルフールだったんだ、と。
 朝忙しかったから、すっかり忘れていた。
 そういえば、そうだ。
 そう考えて、しまったと思った。
 あの告白も、悪戯だと思われたのかもしれなくて。
 そう思われたから、彼はあんな事を言ったのかもしれなくて。
 一際強く、耳の側で音がした。春の突風。
 枝をざわざわと鳴らし、桜の花びらを空へともぎ取って。
 滞空するように、揺れる桜色。何処までも遠い、空の薄い色。綿のように千切れた雲が渡る。
 見上げた側で走っていく。地上に影も落とさずに。落とした影を映さずに。
 幻想のような世界にいたのは一瞬で、すぐに目が冷める。
 夜ならよかった。花弁はくっきりと輪郭を確かにして舞っただろう。
 余韻すら残しただろう。
 緑の葉は濃い藍色に見えたはずだ。
 ちり、と焼けるように、何かが見えたような気がしたのに。
 すぐに空を照らした太陽の目映さと残骸のように散らばる桜の無惨な地上の上で。そうはいかなくて。
 なにか、彼の言葉の意味を見た気がしたのに。掴んだ気がしたのに。
 夜なら、気づいたかもしれないのに。






 夏よりは早い夕暮れが、空や道の端を赤く染める。
 緩やかで、急ぎはしないような落日なのに、ふと瞬くように視線を外せば、また見つめたときには漆黒が降りている。
 夕日が、落ちる様をただ見ていたことはない。落ちる寸前を、見たことはない。
 黄昏の中で風に舞う桜の花弁が、今は橙だ。
 海の水面に落ちるように、反射したオレンジ。
 強く吹かれて千切られても、見つけられないかもしれない花。
 部室の窓が鏡のように目映い色をしている。開けた瞬間に、中の人間が眩しそうに眼を細めた。
 自分の身体が輪郭となって切り取られた日が壁に当たっている。
 逆光になって顔は判別できなかったろうが、身長の高さですぐに誰かを気づいてくれた。
「あ、乾!」
 放り投げるような声は菊丸だ。制服に腕を通しながら自分の名を呼ぶ。
 その後ろで不二が軽く視線を向けてお帰りと言った。悪戯と思われたのか、どちらだろうと考える。
 手塚と大石がいないのは竜崎先生に呼ばれていったからだ。
 他の部員はもういない。
 通常ならもっと遅くまでやっているのに。春の日差しが沈むまでやっているのに。
 それは大した理由ではなかったが、奇妙な感じがしている。
 テニスコートの上に、細くフェンスの影が伸びる。木の陰と混ざり、不気味だ。
「なぁ、酷いんだぜ不二の奴! さっきさぁ…」
 帰り支度を済ませて、今すぐにでも帰りたいという様子がありありと見れる。
 菊丸が話す言葉に適度に相づちを返しながら、気づかれないように不二の横顔を見た。
 少し赤いのは夕焼けが強いからだ。髪が影として落ちる。
 肩口で、扉の影が引っかかるように降りている。
「英二、そんな呑気で良いの?」
「へ?」
「今日、見たいTV予約忘れたって言ってたのに」
 喜劇に近い悲鳴が上がって、小さく苦笑する不二が彼を見送るついでのように乾に眼を当てた。
 駆け足で部室を飛び出していく菊丸の。長い影が部室の中に伸びる。
 丁度不二の口元に掛かって笑っているのか判らない。
 瞳を細めはせず、ただ乾を見上げて、それからゆったりと自分のロッカーに眼を戻した。
 着替えないの? なんて問い。部室の扉が閉じられて、ようやく見えた唇は結ばれている。
(判っているんだろうか)
 悪戯じゃないと。
 聡いはずの彼は、けれど何時もそれが全てではなくて。
 弁解するなら、明日の方が得策なのに。今逃したら、それこそ冗談になりそうだ。
 太陽が今は街の端に覗くほどに沈んでいる。桜を覆う世界が夜になる。
 花弁も葉も、揃いに見えて綺麗だった姿。
 訝るように乾に向けられた視線。髪がその動きにつられて揺れる。
 右側の頬と髪の毛先だけに夕差しは宿って、その分の落差のような肌の色。
 表情の。笑っていないと、判る。
「…どうしたの?」
 不思議そうに。緩やかにカーブを描いた唇。自分に向き直ったことで、首筋に落ちた夕日の名残。
「知ってたんだ。エイプリルフール」
「うん。…知らなかったの?」
「朝忙しくて。覚えてなかった」
「…らしくないなぁ」
 呼吸で笑ったのが伝わった。狭い、桜も入り込まないような空間。お互い以上誰もいなくて。けれど有限の。
 少しだけ、細められた瞳が伏せられて、瞼に落ちた橙が消える。
 背中の向こうに、沈んだ夕日がある。
「…あれ、どういう意味?」
「あれ?」
「…『切欠』って」
 朝のように寝惚けた眼差しではない。見上げる双眸の中に自分が映る。
 きっと、大した表情の変化は自分にはないだろう。
 けれど今は、必死だと見抜かれた方がいいような気がする。
 冗談に説得力はあっても、それは冗談故だから。
 冗談じゃ、ないんだ。
「……悪戯じゃないから。本気だから。冗談だと思われて、返されたんだったら」
「君はそれほど悪趣味ではないでしょう?」
 遮るための言葉だと思った。はっきりと、空気の中に広がって溶けていく。
 明かりもない、夕焼けの残りだけが輝くような中で、不二が緩やかに微笑む。
 意識すれば暗いはずの世界で、瞳が慣れたようにはっきりと、彼の姿を見ていられる。
「そんな、嘘はつかないよ。言い直さなくていい」
「…………………、不二」
「…僕が欲しかっただけなんだ。だから言っただけ」
 意味が判らないよ、と。問いかける乾に、気配だけで伝うように微笑する。
 瞼を伏せて、その細い指先が二本絡んだ。
 カッターシャツの前で、ほんの少し、指の影が落ちている。
「……………」
 しんとしている。音がないようだ。
 ただ、自分の耳は不二の言葉を聞くためだけのモノになったようだった。
 視界なら、彼だけを映すためのように。
 恐れて、怯えるはずの場所で。けれど緊張もしていなかった。
 それも気づく余裕など乾にはなかったけれど。ただ静かで、緩やかな世界に馴染むように。
 ただ、言葉を待つように。
 おかしいよね、と言うように不二が笑った。
 やっぱり、意味が判らない。のに、何故かつられたように曖昧な笑みを浮かべる。
 不二が手を伸ばしたのが、すぐには気づかなかった。
 首筋に掛かった熱が、彼の手の平の体温だと気づいて。
 ――――――唇に重なる温もりに見開いた瞳に、間近で閉じられた瞼が見えた。
 唇を重ねたまま、不二が瞼を開けて、笑うように細める。
 手の平で引き寄せた首。伸び上がった彼の爪先。
 爪先だけが降りて、引き寄せるように首に掛けた手の平は離れない。
「…………」
 呼ぶための、声は出なくて。
 ふわりと笑う、その表情が見下ろせるだけ。
 こういうこと、と。
 乾だけに届かせるような吐息混じりの声で伝う。
「…君がね………………………。
 …はっきりと好きだって、判るだけの切欠が欲しかったんだよ」
 逃げたんじゃなくて。悪戯と思ったんじゃなくて。

 だって、あの瞬間に自覚したのに。本当かどうか、自分じゃさっぱりで。
 好きだって言われたから。そういう勘違いじゃ、悪いじゃない。
「……あの…?」
「今日の朝さ…」
「…………………俺?」
「君以外に“好き”っていう人誰が居るんだよ」
「……自覚?」
「……鈍いなぁ」
 するりと、ようやく降ろされた手の平が名残惜しくて、思わずその手首を掴んだ。
 自身の手より大きな乾の手を、掴まれたままで見つめて、ふ、とまた眼を細める。
「君の側が心地良い理由」
「……え?」
「なんでかなってね。……君が好きだったからか。
 案外僕も単純だなぁ」
 くすぐったいような、そんな感情が滲む声で話す不二を、見下ろしたままで。乾はまだ上手く言葉に出来ない。
 嬉しい。と。自分を好きなんだと判るまでに、普段と比べて恐ろしいほど遅く理解する。
 唇に、熱を移すように触れた感触。証のように濡れた唇。
 一度、閉じて。それから声を出した。
「…――――――……」
 掴んだままの手を自分の胸元に寄せて、夢じゃない証のように口づける。



 ――――――嬉しい。と。



 唇に消えた言葉を、彼は判っただろうか。





 沈みきった夜の世界で、星空を隙間から覗かせながら桜が咲いている。
 明日には散るかもしれない色は、夜の中でも鮮やかで――――――。





20000hitを踏まれたアヤ様からのリクエストで[乾不二でシリアスで甘]
…ノルマ、クリアしたでしょうか?
甘いっていうか…片思いから始めろなんてリクの中には欠片だって御座いませんでした。
…っごめんなさい。しかも大変お待たせしてしまって更にごめんなさい!
ついでに戻ってきたかもしれない手塚と大石の立場については気にしない方向でお願いします。(おい)
下手するとキスシーンとか見ちゃってて大石辺り胃薬準備かもしれませんが。
硬直した後手塚が二人を走らせるのか見て見ぬ振りするのかあるいは判りませんが。
続きは心の中でお願いします。(おいおい)
アヤ様、ご申告有り難うございました!
大変遅くなりましたが、捧げます! 煮るなり焼くなりご自由に!

追記として中学校は4/1っから学校やってねぇよという突っ込みはどうか忘れてください。
すらっと忘れてたんです。








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